しでちゃんの師匠の宮藤さんと角川(四年次)の馴初め。前編の続きです。てか翌朝です。
次に目が覚めたときにはカーテンの下に白い模様が波打っていた。宮藤はいなくて俺は起き上がるとベッドの隅に畳まれた自分の服とその上に置かれた携帯を発見した。開いてみると九時過ぎだった。Tシャツとジーパンまで着てシャツを片手にリビングへ続くドアを引いた。ダイニングテーブルで宮藤がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
「おはよう、気分は?」
「おはようございます……」
なんと答えたら良いのか迷った。
「悪くないです」
「そう。シャワー使うだろ。タオルと新品の下着、出してあるから」
「えっ、そんなの良いのに」
「良いから履き替えなよ。あげるから。なんなら服も貸すけど?」
一瞬汗染みたTシャツのことを考えて甘えてしまおうかと思ったがすぐに打ち消した。下着だけありがたくもらうことにして俺は風呂場へ行った。洗面台の横にはしかしタオルと新品のブリーフのほかに同じく新品のタンクトップまで用意してあってこれはTシャツ代わりということだろうかと考える。もしかしたら宮藤は几帳面なのではなく少し潔癖なのかも知れない。
結局シャワーを浴びてタンクトップの上にシャツを着た。自分の下着とTシャツは新品の入っていた袋に入れてリビングへ戻る。鞄に詰めていると宮藤はさっさとコーヒーを用意してくれる。改めてサーバにいっぱい、インスタントじゃなくてペーパドリップ。なんだか恐縮する。
「ミルクは?」
「いえ、ブラックで」
示された椅子にかけカップをとった。宮藤がキッチンカウンタの手前に立ったままいかにも気になるふうで見ているので。良い香りが立って、すっきりとした苦味とかすかな酸味が通り抜け、あとに深い甘味を感じる。
「……おいしい!」
「お気に召したかな」
そう言う宮藤はかなり嬉しそうだった。キッチンに引っ込むとすぐ火を使う音が聞こえはじめる。カウンタごしに覗き込むとフライパンに溶き卵を投じているのが見えた。
「あの、なにか手伝うことは」
「良いから座ってて」
ボウルをシンクに置いて卵を構う。振り向いている暇などないらしい。
「そこのパン千切っててくれても良いけど」
なるほどテーブルの上にはパン屋のものらしい紙袋と俎板があるけれど、そこまで図々しくはない。おとなしくコーヒーを啜っているとすぐ、でき上がったスクランブルエッグを皿に盛って宮藤は戻ってきた。一緒にジャムの瓶も。それからもう一度キッチンへ戻って今度はフォークとスプーンを二つずつにパンナイフとジャム用のヘラみたいのをもってくるとようやく椅子に座った。
「すいません、なにからなにまで」
「良いってば。ご馳走されたときの礼儀としては、正直に食べることだよ」
なんだか妙な言い回しだった。
「正直って?」
「お世辞は失礼だから。嫌々食べられても嬉しくなんかないからね」
袋から硬そうなパンを引っ張り出しながら宮藤は言う。
「好き嫌いも申告すること……卵大丈夫だった?」
「大丈夫です。でも次から先に尋いてください」
俺が笑ったら宮藤は作業の手を止めた。
「次を期待して良いの?」
思わず見返した。真顔だった。
見入られたみたいで答えられずにいると、ふっと宮藤は視線をはずした。
「まあ良いから食いなよ。ここのパン美味いんだ」
そう言って、パンを二枚切った。
朝食の間はもうその話題は出なかった。自然一人暮らしの食生活について話すことになった。
「面倒でもできるときにはまともな食事しなよ」
「宮藤さんは、毎日自炊ですか」
「外食も多いけどね。それ以外は。うちの師匠がさ、食にはうるさいひとで……そう言っても一時期はかなり適当やってて、一度倒れてからね、また気をつけるようになって」
「倒れたんですか?」
「つっても貧血だぜ? 四五年前かな。医者にはね、男の貧血は危ないからって胃カメラ飲まされたけど、結局なんにも見つからなくて。情けないでしょう」
「そんな」
どんな顔をすれば良いやらわからない。宮藤は微笑んで見せた。
「こういうのは蓄積だから、若いからって無茶はしないほうが良い。だからはい」
スプーンにすくった最後のスクランブルエッグを差し出されて少々困る。
「はいって」
「あーん」
どこまで本気やら。しかたなく俺は食いついた。
「やさしいね、角川君は」
スプーンを引っ込めてそんなことを言う。
「……宮藤さんて、何歳なんですか」
「あれ言ってなかった? 三十三。誕生日は二月……コーヒーもっと飲むだろ?」
席を立ってポットを手にキッチンへ向かう。
十二歳年上の、かっこいい男とセックスして、パンとスクランブルエッグとコーヒーでもてなされて、俺が女だったらどうするのだろう。
薬罐に残っていたのかすぐに沸騰した湯をポットに移し、きれいにしたドリッパと一緒にもって宮藤はテーブルに戻る。のんびりと新しいフィルタをセットして、豆を量って、少しずつ湯を注ぐ。じわじわとフィルタがドリッパに張り付き、黒い宝石のような雫がサーバに落ちる。
俺は昨日見た宮藤の裸身を思い出した。いまはシャツの下に隠れているしなやかな筋肉を。バイオリンは優雅な遊びだけれど、本物の優雅さを醸すのは正しく身に付いた筋肉だ。
コーヒーを入れる間はふたりとも無言だった。これも同じだなと思った。きっと宮藤にとって、この時間は真剣勝負なのだ。優雅な香りを立ち昇らせる正しさ。
ドリッパをのけると軽くサーバを揺すって宮藤はコーヒーをカップに注いだ。
思わず胸ポケットを押さえた自分を俺は恥じた。
「どうしたの?」
「あの……煙草を喫うのは、失礼ですよね」
宮藤はきょとんとして、それから笑った。
「構わないよ。もうコーヒーの味は知ってもらったから」
煙草とライタは昨夜のままそこに収まっていた。宮藤が灰皿代わりに空き瓶をもってきてくれたので俺は礼を言って火を着けた。宮藤は午後から大学の授業があると言うのでそれに合わせて帰ることにした。だからその前に、話をしなければならなかった。
「俺ね、もうしばらくしたらヨーロッパに帰ろうと思って」
先に切り出したのは宮藤だった。
「え?」
「絵里奈が卒業するまではこっちにいようと思うけど。だからとりあえず、来年いっぱいでオケの契約切って、かな」
「それで……どうするんですか?」
「わかんないけど、またオケのオーディションを受けるかな。それで決まったら、たぶんもう日本へは戻らないと思う」
「どうして」
宮藤は微笑んだけれど、どこか寂しげなそれは笑顔で。おもむろに立って部屋を横切り、演奏会のときにもっていたのとは違う黒いバイオリンケースを開けた。弓を張り、松脂を塗って、軽く調弦する。少し高めのピッチだった。
「バイオリンは弾けるだろう?」
「ええ……」
「弾いてごらん」
立って楽器を受け取る。戸惑いながら、記憶の底から指使いを引っ張り出した。エルガーの〈愛の挨拶〉。
弾きはじめてすぐに気づいた。音をやめる。
「どう?」
「すごく……柔らかい音がしますね。甘い……でも明るい」
「うん。千人くらいか、もうちょっと小さいくらいのホールで弾くと気もち好いんだ。カルテットとかリサイタルでは使ってるんだけど」
「どこのです?」
「一八五三年のウィーン製。無名の工房だけどね」
思わず息を呑んだ。オールドか。それも百五十年もの。
宮藤は微笑んで楽器を受け取った。
「師匠に売りつけられたんだけどね、なかなか使う機会がなくて。日本のホールはでかすぎる」
楽器を構え、弓を上げる。鼻歌みたいなさりげなさで歌い出す。ワルツ。
ヨハン・シュトラウス二世〈ウィーンの森の物語〉。
そうか、ウィーンフィルの音色だ。あくまで気ままに、あくまで陽気に、子供のように歌う。天性の優雅さ。
これがヨーロッパで育ったひとの音楽なんだ。
「……日本の『クラシック』ってやつは、肌に合わなくて」
フレーズを名残惜しげに終えて宮藤は言う。
「それは、未熟だからってことですか」
「そうじゃないよ。お堅いのが駄目でね。でかいホールで正装して聴く、みんなが『正統』を探し求めてる、そういうのが性に合わない」
「……なんとなくわかる気がします」
「そう思ったよ。君は歌を知ってる」
弓を緩めながら宮藤はそう言った。松脂を落とす。
「俺より上の年代になっちゃうとさ、どうしても西洋コンプレックスだから。自分流ができないんだよな。カラヤンやベームを追い求めてしまう……ハンガリー人のベートーヴェンをありがたがるくせに朝比奈隆は駄目だと言う。馬鹿げてるだろ? もちろんそんなひとばかりじゃないけど」
「世代の、問題なんですか」
「うん……それもある。個人的な環境もあるだろうけど。君みたいに、高校でオケをやってましたなんてひとはさ、まず楽しいっていうのが前提でしょう。ずっと子供のころから技術だけを叩き込まれてきたようなひとは、言っちゃ悪いけど、音楽を知らない」
少し。
胸が苦しくなった。
「コーヒーと同じだよ」
「え?」
「美味いコーヒーを淹れるには正しいやり方がある。でもそうやって淹れたコーヒーにミルクを入れようが砂糖を入れようが、煙草を喫おうがそれは飲むひとの勝手だ。ましてやカップや服装で味は変わらない。そんなことで台無しになると騒ぐようなやつは、そもそも美味いコーヒーを知らないんだ」
丁寧に楽器を拭き終えて宮藤はケースを閉じる。金具をかける音がかちゃりと響く。
「……よくわからなくなりました。宮藤さんが言っているのは、演奏家のことですか。それとも聴衆?」
「両方」
「日本では、音楽はできないと?」
「そうじゃない。君たちは、日本流の音楽を作っていけると思う。ただ、俺はそこまで待ってられない。せっかちだし、日本にそこまで愛着、ないから」
このひとは。
「だめなんだよね。期待されたくないし、他人に期待もしたくない。自分のために周りを変えようとか、誰かのために力を尽くそうとか思えない。居心地の好い場所に安穏としていたい。煩わしいことに関わりたくない」
ケースを元どおり隅に置いて宮藤は立ち上がった。そして言った。
「話が逸れちゃった。そういうわけで俺は一年半か、長くて二年後にはヨーロッパに帰る。だからね、それ以上長くはならないっていう期限付きで、つき合わない?」
ぽかん、とした。
「そういう話なんですか?」
「うん。どうかな、少しは気楽でしょう?」
気楽……なるほど配慮のつもりなのか。ずるずるとどこまでも引きずる心配はない、あと腐れなく、きっぱりと別れる前提で。それは残酷な提案だと思った。自ら制限を課してしか他人と関われないこのひとは、どんな過去を引きずっているのだろう。いったいどんな経験が、こんなに穏やかな笑顔を浮かべさせているのだろう。
それが気になるくらいには俺は宮藤に惹かれていた。
「良いですよ」
その穏やかな笑顔が、消えた。
「本当に?」
「嘘ついてどうするんですか」
「だって……後悔しない?」
いつか聞いたようなセリフだな、と思った。俺は手を伸ばして、びっくりしたような顔をしている宮藤を抱き寄せた。
「そんなのわかりませんけど、少なくとも昨日のことは、後悔してない」
耳許に囁いたら、宮藤はそろそろと両手を俺の背中に回して、それからぎゅっと抱きついた。十二歳年上の男は嘘みたいに胸をどきどき言わせていた。
「気もちよかったから?」
「それもあるけど、宮藤さんがかっこいいから」
「俺が?」
「コーヒー、美味しかったし」
少しだけからだを離して宮藤は俺を見た。そして微笑んだ。
「ありがとう」
「いえ」
唇が触れ、恋人と最初のキスをした。