本編「オクトーバー・ステップス」其の二十のあと。角川さんと歩海の鬱々えろ。
「駅ならあっち、ちゃんと帰れるよな」
ファミレスを出て、俺は冬木に尋いた。冬木は結局始終黙りこくったまま、食事に半分も手を付けないでフォークを置いた。
「駅まで送るか?」
すると冬木はなにか焦点のぼやけたような目でこちらを見上げた。
そう見えたのは、たぶん瞳が潤んでいるからだった。
「角川さんち、行っちゃだめですか」
「お前、明日学校だろ? 制服も着てないのに」
「終電までには帰りますから」
時計を見ると九時半すぎ。終電まで約二時間半。
責任をとって欲しいんだと思った。慰めて欲しいんだと。俺は息をついた。
「わかった」
歩き始める。冬木もついてくる。ろくな会話もしないままマンションに着いた。音大生向けの楽器可、防音完備のマンション。生活音ならほとんど遮断してくれるが、廊下にはピアノやバイオリンの音色が漏れていた。まだ練習している人が多いのだろう。
部屋の鍵を開けて中に入る。実家が遠いわけじゃない。一人暮らしする必要なんて本当はなかった。でも一日中練習できる環境が欲しかった。もちろんバイトはしているがそんなわがままが通るくらいの経済的余裕が実家にあって、だから甘えた。俺だって大概贅沢だ。
だからこそ冬木を見ると責めたくなる。理不尽なのは知っている。
「楽器」
自分の楽器と鞄を廊下の端において、冬木を振り向いた。狭い玄関から俺がどかないので冬木はドアの隙間で様子を窺っている。言いなり差し出したバイオリンを自分のビオラの隣において、楽器以外は手ぶらの冬木の腕を引いた。
狭い玄関で体がぶつかる。ドアが閉まる。そのドアに相手の背中を押し付けて、鍵を閉めた。唇にキスする。
いかれた関係だと思う。
「ここじゃ、やだ」
そんなことを言う冬木は馬鹿だ。普通はどこだって嫌だろう。
「しないよ。キスだけ」
冬木の髪を撫でながら俺はなだめるようにキスを繰り返す。白いパーカのファスナを降ろして、舌を吸う。Tシャツの下で腰を抱く。
「……ん」
軽く首を振るようにして示したそれは拒絶の意志だった。余分な前戯に対する。靴を脱いで、二人とも廊下に上がった。ほとんどピアノとベッドで埋まった八畳に冬木が来るのはなん度目だろう。ベッドに座った冬木のパーカとTシャツを脱がせてまたキスしながら押し倒した。チノパンを膝まで押し下げて、足をあげさせて抜き取る。靴下も脱がせる。足の裏を撫でると息を詰めて身を強張らせた。冬木は土踏まずが弱い。そこに口づけてやる。
「あ」
細い指がシーツをつかむ。バイオリンを弾く指。
土踏まずを舌でくすぐりながら、大きく開かせた内腿を撫で上げる。ボクサーの上からそっと会陰を押す。歯を食いしばってきつく目を閉じる。脇腹から胸を撫で上げて、手を頬に添えた。うっすら目が開いた。熱っぽく潤んだ瞳。俺は足を離して、上半身を抱き起こして、耳と頸筋にキスした。それから乳首に。冬木の息はすっかり上がっている。でも体を離そうとすると縋り付いてくるから唇にもキスした。俺はシャツとタンクトップを脱いで、確かあったはずだとクローゼットを開けた。棚の上にローションをみつけた。
セックスのとき冬木はいつも受け身だ。でも俺から誘うことはない。
最初に押し倒したときだって、冗談のつもりだった。冬木が怒るというよりもあまりに怯えるから、ちょっと異常だと思った。されたことがあるのかと尋いたら、ムキになって否定した。
それが真実なのか、あったからムキになったのか、本当のところよくわからない。
でも、あるんだと思った。
冬木は男に犯されたことが、少なくともそれに似たことが、あるんだと思った。
「うわっ」
いきなり足を持ち上げてやると不意をつかれた上体はベッドに沈んだ。また開かせて張りつめた下着をなぞってみる。冬木はやっぱり歯を食いしばって、しっかりとシーツを握っている。このまま下着ごとローションでぐちゃぐちゃにしてやりたい衝動に駆られたが、抑えた。AVじゃないんだから。履き口から指を入れて掌全体で尻を撫でるようにして下着を降ろす。腹の筋がひくひく震えている。たっぷりとローションを垂らして、自分の手も濡らして、中指の腹を蕾に押し当てる。ゆっくり輪を描くようにほぐすとすぐに指先が入るくらいに緩んで、そのまま根元まで突き入れる。はあっ、と小さく喉の震えるような声がする。
「力抜いて」
すぐに二本、三本と指を増やして、軽く抜き差しする。ローションのせいで抵抗は少ない。空いた左手でペニスを包み込む。フェラチオは嫌がるからしない。内側の敏感な場所を指先で押すと、冬木はやっとそれらしい喘ぎ声を上げる。
「ああっ、ん、や」
「嫌? どうして欲しい?」
「もぉ、入れて……」
「珍しいな」
こんなふうにせがまれるのは初めてかも知れない。俺は指を抜いて、ジーンズを降ろした。いつもなら焦らしただろう。今日は求められるままにしようと思った。ほとんど勃起していたペニスを軽くしごいて入り口に押し当てた。ひくつくそこは一旦素直に先端を飲み込んだと思うと、異物を押し出そうと締めつけてくる。
「息吸って」
合わせて奥まで一気に貫く。すぐに反動で呼吸が荒くなって、いきなり酷く締めつけられる。
「ああああっ」
甲高い悲鳴を上げて冬木は頭をのけ反らせるみたいに硬直する。閉じた瞼の端から涙が流れた。俺はびっくりして、硬直が収まるのをまってゆっくりと体勢を落とした。荒く息をしている冬木を抱いて、頬に口づけた。
「イった?」
目を閉じたまま一度こくりとうなずいた。
「このまま続けて良いか?」
「……つづけて」
かすかな声を聞いて、もう一度頬にキスする。少し体を起こすと冬木は怠そうに腕を上げて抱きついてきた。唇を合わせたまま、俺は冬木の中で動いた。
「っ──」
声にならない喘ぎを感じる。最初はゆっくり、徐々に激しく突いていく。二ヶ所で繋がっている部分が濡れた音を立てる。背中に爪が食い込んでいる。部屋の電気をつけなかったことを今更のように思い出す。遮光カーテンを閉め忘れていたから、おもての街灯の明かりがレースに透けていた。冬木ががくがくと震える。二度目のオルガスム。やばい、コンドームを忘れた。抜こうとしたが間に合わなかった。
「ふあっ」
達した瞬間そんな声が聞こえた。中に出されたのに反応したんだろうか。ちょっと意識が遠のく。しばらく動けなかった。
「……悪い」
生ぬるい液体を腹に送り込まれるなんて気持ち悪いだろうと思う。妊娠しないからって良いわけがない。そもそも突っ込まれることからして俺には想像もできないのだけれど。涙を流しながらぼおっとした顔で冬木はどろりと俺を見ていた。萎えたペニスを抜くと俺の精液はもう冬木の尻を濡らしていた。ティッシュをとって拭いてやる。まるで構わないみたいに冬木はそのまま寝そべっていた。いつの間にか目を閉じていた。俺はジーンズを履きなおして、冬木に毛布を掛けてやった。
シャワーを浴びようかと思って、でもまだ怠くて、最近ついに始めてしまった煙草に火を着けた。棟方にいぶされて馴染んだ赤マルボロ、ではなくライト。そんな小さな抵抗を試みるくらいなら始めから喫わなければ良いのだろうが。
「……角川さん、煙草喫ってましたっけ」
正気に戻ったらしい冬木の声が聞こえて、ベッドの縁に座っていた俺は後ろを振り向いた。
「いや、最近。嫌だったらやめるけど」
「いえ、大丈夫です……ねえ角川さん」
「ん?」
「僕のこと嫌いですか」
なにを尋かれたのかわからなかった。
「……どういう意味だよ」
「僕、嫌われるの慣れてるんです。慣れてたはずなんですけど、なんかおかしくて。さっき角川さんに言われたこと……すごく嫌で。あんなこと言われるくらい、なんでもなかったのに」
理解できない。俺の言ったこと。コンプレックスあるとか、僻んでもしょうがないとか、めちゃくちゃな、酷いこと言った。わざと叩きのめそうとした。嫌で当たり前だ。それが「なんでもなかった」?
「なに、言ってんの、お前」
「角川さんとか、五十嵐に嫌われてるって考えたら、すごく辛くて。僕いま、変なこと言ってますよね。当たり前なのに。だけど僕は、ああいうことで嫌われるの、しょうがないって思ってたから」
「ああいうことって」
右手の先で金マルが徒に灰になっていく。視界の端でそれを捉えながら、動揺した俺はうまく動けない。
「西園寺彬の息子だから。冬木瑞穂の孫だから。そういう血筋で、バイオリン弾けるのが当たり前で、コネとかもあって、苦労しないでもデビューできたりするんでしょって」
なんの感情も読み取れない淡々とした声で冬木は言った。
「そういうふうに言われるんですよ。まるで狡いことしてるみたいに。そんなわけないじゃないですか。楽器なんて、練習しなきゃ弾けるわけないし、確かに色んなところに知り合いいるけど、それで仕事ができるわけじゃないですよ。でもそう思ってる人って大勢いて、だからいい加減慣れちゃって」
「そんな」
馬鹿げてる、と言いかけて、俺にそれを言う資格はないことを思い出す。俺は決して、冬木の努力を認めないという意味で言ったわけじゃない。それでも、言葉の上では変わりない。それ以上に、良い薬だぐらいに考えて敢えて冬木を傷つけようとした俺に、なにを言う資格もない。表に見える冬木の高慢さや鈍感さは傷口を被う瘡蓋で、俺は無神経にそれを引っぺがしたのだ。
慣れるなんて。そんなことに慣れて良いはずがない。
「なんで、きたんだよ」
なにか言える言葉はないのかと探して、結局それを尋いた。冬木は同じ無表情な視線で俺を見ていた。せめて怒れば良いのに。軽蔑すれば良いのに。ひたすら無表情で。
「抱いて欲しかったから」
冬木はそう言った。
「だから、なんで」
「嫌われたくないって思うくらい、僕は角川さんのこと好きだから。音楽関係ない、こういう関係なら、大丈夫なのかなって。でも、わからなくなっちゃった。抱いてもらっても、嫌われてたらやっぱり悲しいから」
俺は絶句して、絶望して、ただ冬木のことを見つめていた。責任をとって欲しいだの慰めて欲しいだの、俺はなにを考えていたんだろう。こんな関係、本当にいかれてる。
やっと座卓の上の灰皿に手を伸ばしたのは灰が崩れる寸前だった。仰向けに寝ている冬木に覆いかぶさって、その細い体を抱いた。なにか言おうとしたけれど本当になにも言えなくてただ抱いた。冬木は不思議そうな声で、角川さん、と俺を呼んだ。それでも俺はなにも言えなくて、一分近くもそうして抱いていて、やっと謝らなくちゃと思いついて、ごめんな、と言った。
「あれはただの八つ当りだから。嫌いじゃないよ。絶対嫌いじゃない」
抱きしめた胸と耳許で冬木の呼吸を感じる。自分がどんなに酷い痛みを受けているか冬木は認識しているのだろうか。神経が麻痺していれば痛みは感じなくとも、確実に傷は増えていく。知らぬ間に血は流れている。それは緩やかに無自覚に死んでいくことだと、わかっているのだろうか。
両手を突いて体をもちあげると、いつの間にか冬木は涙を流していた。なんで泣いているのかわからないような顔で。
好きだと言ってやれば良いのかも知れない。でもなぜかその言葉は出てこなかった。黙って天井を見ている冬木をおいて、俺はくすぶっていた煙草を灰皿にこすりつけるとシャワーを浴びた。