歩海と親戚のお姉さまとのいちゃいちゃ模様。前編は練習風景、後編はえろえろ。
本編では二年目体育祭編と合宿編の間くらいになる……かな。多少食い違いなどあるかも知れませんがそのへんはご愛嬌。
飛鳥井妃紗生さんは僕の父方の遠い親戚に当たる、らしい。
お母さんの苑美さんは伴奏をメインに活動するピアニストで、僕のお父さんがヨーロッパに行く前はよく一緒に弾いていたそうだ。僕も小さいころコンクールなんかに出るときにはお世話になったことがなん度かある。妃紗生さんとも会う機会はあって、内輪のコンサートで一緒に演奏したこともある。ただ僕がコンクールを敬遠してしまったので、しばらく縁は切れていた。
最後に会ったのは三年前、僕が中学二年生のとき。妃紗生さんは、高校三年生だった。
「あゆちゃん、久しぶりい!」
ぼんやり壁際に立っていた僕を目ざとく見つけて妃紗生さんは手を振った。薄いクリーム色の花柄のワンピースに鉤針編みの白いカーディガン、それにつば広の白い帽子から流れるワンレンロングの黒髪は、殺風景な地下鉄駅にかなり目立った。それ以上に、涼やかな顔立ちはなお一層ひとの目を引いた。切符を通すのももどかしくといった様子で改札を抜けると、小走りに駆け寄ってくる。膝丈のワンピースから伸びるストッキングの足許は、やっぱり白い編み細工のサンダルだった。
「うわあうわあ、あゆちゃんやあ、ほんまに久しぶりやねえ」
切れ上がった目尻だけがきゅっと丸くなる。
「うん……久しぶり」
「背え伸びちゃってえ、男の子らしくなったわあ。前はもっと可愛らしかったのにねえ」
「そうかな……」
「うんそうやよお。なーんか楽しみ」
「え?」
僕の表情があまりに固かったのだろうか。妃紗生さんはふふっ、と笑った。
「さ、はよういこいこ」
僕の手を取って構内を出ると、真っ白な日傘を広げた。
真っ昼間だから防音室でなくても大丈夫だろう、ということで、リビングのグランドピアノを使うことにした。妃紗生さんは嬉しそうに鍵盤の蓋を開けてCdurのアルペジオを鳴らす。指先は唇とお揃いのチェリーピンクに光っていた。短く削っても貧相に見えない綺麗な爪。
「ああ、ええなあ象牙のタッチ。うちいま一人暮らしやから、家のピアノがなつかしゅうて」
「ああ、そっか。やっぱり違う?」
「うん。ぜーんぜん違う。ヤマハの、ずいぶん選んだんやけど、やっぱり鍵盤が軽くって。このくらい重いほうが好きやわ」
楽器を出して、音をもらって調弦した。すぐに一回通すことにする。モーツァルトのコンチェルト、第一番。コンクールで弾くのは一楽章のみ、カデンツァの手前までだ。
「テンポは?」
確認して、妃紗生さんは譜面に向かった。すっと表情が変わる。
空気までも。
朗らかな和音が弾ける。オーケストラが、鳴る。
忘れていた。本物のピアノの音はこんなにも豊かなのだ。
左手が和音を示す。右手がころころと遊ぶ。弓を上げる。
音を、呼吸する。
「だめ」
世界が消えた。妃紗生さんは僕を睨んでいる。
「だめだよ。私はなんにもわからんのやから、つけたら絶対だめ。誰がコンクールに出るの? あゆちゃんの音で弾いて」
深呼吸。
「ごめんなさい」
「緊張してるん?」
「……少し」
嘘だった。ほんとうは、めちゃくちゃにビビってる。
自分の足で立って、リサイタルをこなしてきたひとの音が怖かった。自分のほんの数歩先で、自分の前に確実に見えている、障害を乗り越えて歩いているひとの音が。
じっと僕を見据えた妃紗生さんは、小さな唇を尖らせて、うそつき、と言った。お見通しか。
「そんなに怖いんやったらやめとき。コンクールなんか出たって、ほかのひとの演奏聴いてビビるだけや。箸にも棒にも掛からんような演奏しかできひんのやったら出ないほうがええ。自信だけもってかれてボロボロんなるだけやわ」
きつい。福井先生に言われるよりよっぽどきつい。闘っている最中のひとの言葉は、あまりに生々しくて。
「ごめんなさい。今度はちゃんと弾くから」
自分に戒めるように言ったら、妃紗生さんは唇だけで笑った。
頭の中でイメージする。いままで練習してきたように、自分の音楽を。
和音が自信たっぷりに向かってくる。指揮棒が見えたような気がした。
そうだ。いつもやってるじゃないか。
弓を叩きつける。ちょっとやりすぎたけどまあ良い。ピアノが戸惑ったのがわかる。いつもならそこで止まる。飯沢なら。
いまは、すぐに寄り添ってきた。裏側から。やわらかくリズムを刻む。
すごい。
こちらの音が引く瞬間、待ちかまえたように浮き上がる。
挑発、される。
奔りたくなる。トリルに絡みつかれて、触れ合ったまま高みに昇る。そのまま、空中に放り出された。まっしろな。
(……え?)
指が動かない。ピアノも鳴らない。なにもない空間に立ち尽して、やっと思い出した。カデンツァの練習はしていない。
なんて、中途半端。
五分しかない。あっという間だ。
楽器を降ろして妃紗生さんを見た。妃紗生さんは面白そうに笑っていた。
「どうしたん?」
「……足りない」
一度目を見開いた妃紗生さんは噴き出して、あゆちゃんてばエッチやわあ、と冷やかすように言った。
僕は――赤面した。
「いまのはすごおく強引やったけど、でもわかりやすかったわあ。からだで感じられて」
そう言ってクスクス笑いながら、
「もう一回しよ。今度はやさしゅうしてや」
「……妃紗生さん」
「なあに?」
「そういうの、やめて」
僕が言うと妃紗生さんはわざとらしくきょとんとして見せて、それから、そういうのって、どういうの、と尋いた。
「ちゃんと教えてくれんとうちわからんわあ」
僕は無視して、ずれてもいない譜面の位置を直した。
そのあとは少しずつ僕が注文をつけて、こまかい箇所を修正していった。妃紗生さんはいちいち機敏に応じてくれる。たまにアドバイスをくれて、それも的確で、ためになる。
ただし。
「あゆちゃんのやりかたはわかったけど、ちょおっと、抑えたほうが良いかも知れんね」
「どういうこと?」
「リサイタルやったら自然体でええけど、コンクールやから、もうちょっとねえ、ストイックなほうがええわ」
「ストイック……」
いまいち方向性がつかめないでいると、妃紗生さんは立ち上がって、僕の正面に立った。僕よりほんの少し低いだけで、ほぼ同じ高さで顔を近づける。
「あの」
切れ長の涼やかな瞳で間近から見据えられて、蛇に見入られた蛙のような僕の胸に両の指先を這わせて――第二ボタンまで開いていたシャツの前を留めた。
「こういう感じ」
言って、すっと踵を返す。黒髪が鼻先をかすめる。
「い……いちいちそういうことしなくて良いから!」
「あゆちゃんこそいちいち期待してたらあかんよ。ほんにエッチな子お」
「きた……」
言葉を失った僕に、わかったらもう一回やってみよ、と椅子に座り直して妃紗生さんは真顔で言った。そして、
「ようできたらご褒美あげる」
さりげなくスカートの裾に手をやる。
もう、やだ。
モーツァルトばかりに時間を割いてもいられない。本選のパガニーニも練習しておかなくては。そちらのほうが難しいし、長さもカデンツァ抜きで十分強ある。こまかい技巧的なことは持ち帰ってそれぞれ練習するとして、おおまかな打ち合わせだけでも結構大変だ。なんだかんだで四時間ほども費やして、すっかり疲れてしまった。
お茶を淹れて一息つこうと思ったら妃紗生さんはテーブルではなくローテーブルにお茶を運ばせて、僕にソファで隣り合って座るよう促した――促すというよりは少し強引だったけれど。
「美味しい。これなあに、ハーブティー?」
「さあ……おばあちゃんの貰い物だから。なんなら箱見てくるけど」
「ええよ、わざわざ。けどよくわかんないもの出すん? まあええけど……そう言えば、先生は今日は?」
先生と言ったのは祖母のことだ。
「どっかの大学オケの仕事……ああ、飲んでくるのかな。夕飯どうしよう」
大抵、練習が終わるのが六時とか八時とか、それから連絡がくるから困ってしまう。
「あゆちゃんが作るん? わあ楽しみー」
「え、食べてくの?」
「当たり前やん。うち帰ってもひとりやもん」
「……じゃあなにか取ろうかな」
「えー、そしたらねえ、ピザがええな」
ひとりやとなかなか食べれんから、と妃紗生さんは嬉しそうに言う。そんなものか。
「もう少ししたら頼もうか」
「やったー」
喜んだ妃紗生さんはカップを置いて、しなだれかかってきた。
「ちょっと」
「はあー疲れちゃったあ。予選までまだ三ヶ月もあるなんて嘘みたいやわあ」
そう言われてしまうと少し申し訳なくて、文句を言うわけにもいかずされるがままに、僕もカップだけは中身をこぼさないようにテーブルに戻した。すると妃紗生さんはますます体重を預けてきたうえに、ストッキングの足をソファのひじ掛けにはね上げる。スカートが逆向きにずり下がりそうなのを手で押さえているのがわかって目を逸らした。
「ごめん。直前に時間がとれないから、前倒しでやらないといけなくて」
「聞いてるて。文化祭やって? ええなあ、うちも行こうかな。いつ?」
「十月の頭……六日と七日かな」
「ちょおーど予選と本選の間かあ。大丈夫なん? コンマスなんやろ?」
自分でも不安ではある。部のみんなにも申し訳ないと思う。でも。
「……なんとかするよ」
自分で決めたのだから。やるしかない。
急に、妃紗生さんはからだを起こして、ソファの上で半回転して両手を突いた。じっと僕の顔を見る。
「な、なに」
「もおー、ほんまに逞しくなっちゃってえ」
膝を折ってちょこんと座る。ワンピースの裾がふわりとよけて、ストッキングに包まれたきれいな膝が二つ、丸くのぞく。
「ねえ、しよっか」
「だからやめてよ、そういうの」
「……ふうん、そっか。かわいい彼女がおるんやね」
なに言ってるんだ。
「いないよ」
「そう? 嘘ついたらあかんよ、こんなにかっこええのに」
頬を撫でられて思わず振り払った。
「いないって」
「そしたらええやん」
「よくないよ」
「うそつき」
両手が、僕の肩を押した。ソファに押し付けられて、目の前に妃紗生さんの顔が迫って、息がつまる。
今度は唇が触れた。
指先が肩から鎖骨を這って、さっきから留めたままのボタンを外した。
最初から留まっていたぶんまで。
「したいくせに」
ほとんど触れ合ったままの唇で妃紗生さんが言った。
下着のシャツは着ていなかった。熱っぽい指先が胸からお腹へ撫で下ろして、さらにベルトを越えて下に向かう。
「だめ……」
やわからな唇と舌とが言葉を覆い、同時にファスナの上から指が押し付けられた。僕の舌先を吸い上げて、妃紗生さんは耳許に囁いた。
「してあげる。それならええでしょう?」
僕は観念して目を閉じた。まるで三年前と同じだ。